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未来について話そう

編集長通信11/02


kn01.jpg 弾き語りライブで訪れた宮城県の気仙沼。震災直後の状況から比べれば、かなり片付いているという話を伺った。それでも私の目には復興への歩みがここにきて停滞しているようにも映ります。自治体の想い描くビジョン、それぞれ住民たちの想い、いろいろな問題もあることだろうと想像します。ただ、それにしても、津波で被害を受けた沿岸部への公的な支援の速度が遅すぎはしないかと、被災地に行く度にやきもきとした気分になります。同時に、その被害面積の大きさに途方にくれてしまいます。ミュージシャンがいくら慰問に訪れようと、決して動かせないことだけが転がっています。

 併せて放射能の問題も私たちは抱えています。瓦礫の処理についても、放射能の問題はついてまわります。原発事故と津波による被害のことを切り離して考えてしまいがちですが、復興に向けた様々な活動は、原発の事故さえなければ現状の何倍ものスピードで進んでいたはずです。それもまた、とてももどかしい。

 物理的なことや経済的なことも含めて、僕たちは「住む」ということをもう一度考えなければいけない時代になったのだと思います。それぞれが、それぞれの自由と責任で住む場所を選び直さなければならない。もちろん、「想い」のようなもの、ときには柵のような事柄とも向き合う必要があるのだと思います。そのうえで、選ばなければならない。これは東北だけでも、東日本だけもなく、日本人全体の問題になったのです。


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「選ぶ」ということはとても大切な行為です。同時に権利でもあります。僕らが買う商品の選択ひとつをとっても、その集積が「社会」です。極端な例を出せば、消費者のすべてが断固として有機栽培の野菜を選べば、野菜売り場には有機野菜だけが並ぶようになります。ある程度の数が集まった場合の消費者の選択というのは強いのです。だから、僕たち一人ひとりが何をどんな考えを持って選ぶかはとても重要です。むしろ、それ以外の方法で社会が変わることはないと私は考えます。

 私たちは、精神風景としての、現在という荒野に何を建てるのか、真剣に考える必要があります。そして、行動に移す必要があります。これは大きなことではなくて、私たちのささやかな生活の中にある選択すべての積み重ねなのです。

 そんなことを考えながら、創刊号の編集に取り組んでいます。
2011年11月02日