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未来について話そう

取材記 9/29


sen01.jpg 先週末、東北の各地を取材してきました。左の写真は仙台市若林区の風景。

 仙台市の沿岸部は津波によって甚大な被害を受けました。辺りの水田は農業用水も含めて壊滅的な打撃を受け、現在も復旧は進んでいません。そんな中、農地を再生させる動きがささやかながら強かに進んでいます。塩害などが予想されていましたが、野菜たちはすくすくと育っていました。

 特別な土壌改良をしたわけではない土地で、以前よりも育ちが良いくらいだという野菜たち。近隣ではカボチャが野生化していました。植物たちのこういった強さは、私たちにとって確かな希望になるものだと感じました。久しぶりに、とても明るいニュースに触れたような気がします。

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  しかしながら、広大な面積の農地が手つかずのままでした。他県の沿岸部の地域と同様に、以前住んでいた場所へ戻るのか戻らないのか、行政の判断を含めて、進んでいないという印象を受けました。


 夕暮れ時の浜辺を散策。台風通過直後ということで、広い範囲で農地が水没。落ちていた枝で測ってみると、膝上くらいの水深がありました。湿地のような風景です。(※写真をクリックすると拡大されます。)

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sen08.jpg 海岸線の風景。同じ太平洋岸ということもあって、どこか私の地元の静岡の海岸線と似た雰囲気を感じました。この堤防を越えて津波は町を飲み込みました。波の高さは小学校の3階に届くほどだったそうです。

 そして前回、私が書いた記事、浜岡の海沿いのことも思い浮かべました。浜松市や静岡市の沿岸部のことも考えました。同程度の津波が押し寄せた場合には...。地理的な条件はもちろん違いますけれど。

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 取材内容についてはThe Future Timesの創刊号で。この地で芽吹いた確かな希望を記事にまとめて、皆さんに報告しますね。発行は11月の末を予定しています。

 今後も、このような取材記を更新していきますので、引き続き、よろしくお願いします。
2011年09月29日

編集長通信 9/1 "浜岡見学記 後編"


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hm12_2.JPG 浜岡原子力発電所のある御前崎市は、人口3万5000人くらいの小さな町です。小さな町ではありますが、発電所にかかる固定資産税や核燃料税、交付金によって静岡県でも最も財政状況の良い町のひとつとなっています。事故があった場合のリスクということの一点で考えれば、近隣の市町村も同じですが、実際に立地している市町村だけが財政の面では飛び抜けて潤っているという現実。御前崎市のことを悪くは思いませんが、複雑な気分になります。

  海から観る浜岡発電所。立ち入り禁止の看板の向こうには排水口があります。

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 地元のサーファーの話によると、このあたりは排水口から流れる温水によって、冬場でもかなり水温が高いとのこと。それによって魚が集まり、大きなロウニンアジが釣れたり、サメが出没したりするのだそう。“シャーク”というサーフスポット名が付けられているという話も聞きました。

 また、この温かい排水を利用して、御前崎市ではクエの養殖も行われていました。地元の市場で食べることが出来ます。残念ながら、この日は時間がなくて食べられませんでしたが、なかなか強かな利用方法だなと感心しました。

hm14.jpg 原子力発電所付近の海辺は、かなり高い堤防が造られていました。高さにすると10メートルはあるでしょうか。建物の3階分くらいはあるように感じました。とても大きい。ただし、陸前高田や気仙沼、多くの三陸の町を襲った巨大津波のことを考えると、怖いようにも思います。ただ、津波に免疫のない静岡県民から思えば、十分に立派な堤防に見えました。


hm12.jpg それでもこの図説を見ると不安にならざるを得ないですよね。どう見ても震源域のど真ん中であることは間違いありません。“どうしてこんな場所に造ったんだろう” これは誰しもが抱く疑問のひとつだと思います。

 静岡県民のひとりとしては、小さい頃から繰り返し東海地震の危険性は学校でも家庭でも話題にのぼることなので、生まれたときには既にあった原発の耐震性については、“そんなもの大丈夫に決まっている”と考えもせずに受け入れていたフシがあると思います。このあたりは反省しなければならないですね。津波での被害も恐ろしいですが、真下で地震が発生する可能性がある場所に立地しているということ、これはどう考えても恐ろしいことだと思います。

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hm16.jpg 剥き出しの防波堤の奥に見えるのは取水口です。船のような、灯台のような物体が5体見えますよね。あそこから取水して、前編で紹介した復水器に水が送られています。案外、小さいことに驚きました。

 取水口が津波で壊れるということはないのでしょうか。近隣はビニールハウスなども多く、津波で流出したビニールや資材が詰まるということがあっても怖い。ちなみに、この取水口、大量のクラゲによって取水できなくなった過去があります。現在はクラゲの対策は施されたとのことですが、笑えない話ですよね。

 これが、私の地元から車で30分くらいのところにある浜岡原子力発電所です。首都圏からでも、名古屋あたりからでも、比較的見学しやすい原子力発電所だと思います。興味がある方は、観光がてらに見学してみてはどうでしょうか? どのような場所に原子力発電所があるのか、見ておくのも良いと思います。恩恵とリスクの両方を一身に背負っている町です。そして、一番潤っているのは誰なのか、よく考えてみる必要があると思います。事故を起こした会社が潰れていないこと、これはとても重要な事実です。そして、一番大きな代償を支払ったのは誰なのか。胸が痛みます。

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 故郷を離れなければならなくなってしまったひとたちの心情を簡単に想像することは出来ません。そして、もともとはそこに存在しなかった放射性物質に怯えながら生きて行くことを余儀なくされたひとたちも沢山居ます。首都圏も例外ではありません。セシウムは静岡県中部のあたりまで降り注ぎました。

 もし仮に、浜岡原発に何かがあった場合、僕はどうするだろう。両親を故郷から連れ出すことは無理だと思います。彼らは、この場所で最期まで生活することを選ぶでしょう。友人たちや親戚はどうするのか。弟や妹はどうするのか。考えただけで途方に暮れてしまいます。

 そういう想像力を、面倒くさいという言葉と引き換えに心のどこかにしまい込んで、平然と暮らしていくことが怖いです。あるいは“経済”という、神様みたいに扱われる言葉の前で、飲み込んでしまわないといけない問題なのか。少なくとも僕は、無関心ではいられません。

 他人事なのだという感覚を排していくこと。実際に現地に行くのは、実感するためです。完全なる当事者にはなれないかもしれないけれど、物事と自分の距離を知ること、考えること。それは頭の中に地図を作るという行為だと僕は思います。無関係なことではないということを知るためには、体を動かすことがときには必要なのだと、強く感じます。
2011年09月01日

編集長通信 9/1 "浜岡見学記 前編"


 僕の出身地である静岡県の島田市は、浜岡原発から30km圏内の町です。物心がついた頃から“必ず来る”と繰り返し注意が喚起されている東海地震のことを思うと、正直言ってとても不安な気持ちになります。現在は停止中の原子炉ですが、冷却機能を失ってしまえば、起きる事態は同じです。

 そういう心配を心に抱く傍らで、実はそれほど浜岡原子力発電に馴染みが無いという現実。原発近くの町で生まれ育ってもです。小学生の頃に行った原子力資料館についてのおぼろげな記憶だけで、本当に浜岡のことを理解できるのか? そういう気持ちがムクムクと心の中に立ち上がりました。六ヶ所村の核燃料再処理施設や上関町の田ノ浦、そういった町に実際に訪れて思ったことが、行く前と後では全く違うことも、思い返しました。

hm01.jpg というわけで、浜岡原子力発電所まで行ってみることにしました。実際に行ったのは5月の初旬で、4ヶ月も前のことになります。そのときに思ったこと、あれから考え続けていること、それを今回はここに綴りたいと思います。そして、皆様には馴染みのない静岡県御前崎市の風景や浜岡原子力館の写真を、何枚か記事に添えたいと思います。



 まずは新エネルギーホールへ行きました。「自然のちから、みつけよう!」という標語がお出迎え。案外、自然エネルギーについては肯定的な立場なのかと、そんな想像が膨らむ外観です。

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 でも、今泉さんとの対談記事にもあるように、本当は“新エネルギー”ではなくて、“再生可能エネルギー”と呼ぶべきなんですよね。そのあたり、あくまで自然エネルギーはまだまだ新参者だという扱いなのでしょうか。気になるところです。

hm03.jpg 中に入ってみると、このような展示がありました。自然のちからを見つけたのは良いのですが、このようにして、「お金がかかりますよ」というような指摘が随所に見られます。なるべくフェアな目線を持って見学することに努めましたが、「やっぱり原子力発電はスゴいんだよ!」というようなアピールの場であったように思います。それが良いのか悪いのかは私には分かりません。原子力発電所に隣接する建物ですから、原子力発電の魅力をアピールするのは当然のことでしょう。ただ、ちょっと怖いなと思いました。

 続いて、浜岡原子力館へ。

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hm05.jpg 館内に入ってまず目に入ってきたのは、5月初旬現在の原子力発電所の運転状況。この後、4号機、5号機は政治的な判断で停止されました。それぞれの原子炉の営業運転開始の年号をみると、とても不思議な気分になります。1号機は僕の生まれた年と同じ年に運転が始まりました。現在は廃炉へ向けての作業中。

 日本の原子炉、実は一基たりとも廃炉が完了したという実績がないのだそう。廃炉と言っても簡単なことではないという話も聞きます。造ってしまうと元に戻すことがかなり難しく、とても長い年月がかかること、このあたりも忘れてはいけませんね。実績がないということは、出来るかどうか分からないということでもあります。1号機、2号機のある場所が更地に戻るのは何十年後でしょうか...。

 原子力館の中には、福島第一原発で事故を起こした原子炉と同じ型の原寸大模型が展示されています。大きさにも驚きますが、配管などの細かさにも目がいきます。TVで放送されていた簡易的な図説とは印象が違いました。

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hm07.jpg それは同じフロアに展示してあった縮小版の模型を観ても変わらぬ印象でした。思っていた以上に配管が細い。一本の太いパイプが出たり入ったりしているのだと、てっきり勘違いをしていました。

 巨大地震ならば、格納容器の外の配管のどこかがポキっと折れてしまうことはないのか、素人の目では不安に思ってしまいます。あくまで模型を観ての感想ですが。ただ、とても厳重に格納容器が造られていることは、ふたつのサイズの模型を見学して分かりました。あとは、不謹慎かもしれませんが、構造物としてある種の美しさも感じました。当時は、最先端の夢の精密機械だったのだと想像します。

hm08.jpg 右の写真は復水器と呼ばれる、原子炉からタービンを通ってきた蒸気を冷やす場所の模型です。遠州灘から汲み上げた海水で冷やしています。写真には撮影できなかったのですが、冷やす部分の配管はかなり繊細に出来ているように見えました。

 そう言えば、5号機では、その部分が破損して、海水が流入してしまうという事故がありましたよね。冷却というのは、原子炉の安定的な停止にとっての肝なのでしょう。ここが壊れてもダメなのだということを理解しました。

hm09.jpg 続いては、作業員の衣服の展示を見学しました。黄色とグレーの作業着が展示してありました。放射線を浴びるリスクのある場所で着るものということで、かなり分厚いものを予想していましたが、特別な素材という感じは全くありませんでした。様々なものが付着しにくい加工になっているとのことですが、ゴミ焼却施設などで使われているものと同じなのだという話を、ゴミ処理関連の仕事をしている友人から聞きました。“信じられない”というのが率直な感想です。

 そして、実際に作業員が現場から出て来るときに通るゲートでは、線量計の単位がmSv(ミリシーベルト)であることに驚きました。僕らが年間の積算で2mSvという数値でビクビクしているなか、小数点以下が設定されているとはいえ、当たり前のようにmSvという単位が表記されています。改めて、原子力発電所の技術者の皆さんの大変さを思いました。

hm11.jpg 私たちの生活を支えるエネルギーの最前線では、このようなリスクと戦いながら作業をしているひとがいます。そのことについても、僕らはもう少し想像力を膨らませないといけないのだと思います。逆に言えば、誰かにそういったリスクを背負わせることで成り立っている発電方法だということです。

 でも、なんだってそうかもしれませんよね。石炭火力発電だって、どこかの国の炭坑では落盤事故が起きるかもしれない。後進国では、貧困にあえぐ子供たちが素手で石炭を掘っているような場所もあります。先進国が湯水のように使うエネルギーと欲望を満たすために。

 エネルギーをシフトさせていくスピードについては様々な議論があることが正しいのだと思います。スイッチのON/OFFみたいな話ではないということも理解しています。ただ、社会全体の方向としては、自然からのエネルギーを増やしていく、持続可能なかたちで活用できるような技術革新を促していく、転換していく、こういった流れは否定できないものだと僕は考えます。そうしていくことが、僕たちの社会にとっての本当の意味での利益になるのだと思います。

後編につづく
2011年09月01日