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もう一度、海へ――牡蠣と漁師の3年間

あの日、すべてを奪い去った海。
陸前高田で牡蠣の養殖を生業とするある親子の姿をとおして、海と生きる者たちの覚悟と再生の3年をたどる――

取材・文・撮影/安田菜津紀

なぜ人は海に戻るのか

 春先にも関わらず、凍てつくような風が吹きすさんでいた2011年3月、岩手県陸前高田市。かつての市街地は、そこにどんな営みが存在していたのか、想像もつかないほど、中心地がごっそりと流され、波にかき回された直後だった。2万4000人ほどが暮らしていたこの小さな市で、死者、行方不明者は1700人を超えた。累々と積み重なる瓦礫(がれき)、破壊された大地を前に、ただ茫然と立ち尽くした。「さぞかし人は海を恨むだろう」。瞬時にそう思ったのを今でも憶えている。

 あれから 3年が経った。瓦礫や流木で埋め尽くされていた広田湾には今、養殖のための筏(いかだ)一面に並んでいる。一人、また一人と浜人がこの海に戻ってきた。時には照りつける太陽の下で、時には凍りつくような海風の中で、黙々と作業に打ち込む彼らの姿を目にするたびに、疑問に思わずにはいられなかった。あれほど街を破壊し尽くし、人の命を奪っていった海。なぜ人はそこにもう一度、戻って行くのだろうか。

 旧市街地の東側に位置する脇ノ沢港。暗闇に包まれた港に、波音だけが静かに響いていた。突然「ゴオッ!」という太いエンジン音が静寂を破り、一筋の灯りが波間を照らした。時刻は朝の4時、丸吉丸の出航の時間だ。舵を握るのは若手漁師の佐々木学さん(30)。父である洋一さん(61)と共に、この浜で牡蠣の養殖を続けてきた。早春とはいえ、夜明け前の海風は容赦なく体温を奪う。「手先の寒さだけはどうにも慣れないんだよなあ」と、ポットで沸かしたお湯に何度も手をつけながら、洋一さんが笑う。これから夜が明けるまで、筏に吊るされた牡蠣の水揚げが続けられる。

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広田湾は海と山の恵みを受け、牡蠣以外にホタテやワカメなどの養殖も行われている。


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津波によって引き倒されたままの防波堤

 脇ノ沢港のある米崎町は、気仙川が注ぐ広田湾の湾奥に位置している。植物性プランクトンが豊富に育ち、築地でも一、二の値を争うほど質の高い牡蠣を育ててきた。学さんのお祖父さんである健太郎さんたちがその礎(いしずえ)を築き、浜の家族たちはその誇りに一層磨きをかけてきた。こうして育まれた地域の宝があの日、一瞬にして海に奪われた。湾に浮かぶ300近くの養殖筏や作業場は壊滅、防潮堤は引き倒され、港は1m近い地盤沈下に見舞われた。

 佐々木さん宅があった場所は、防潮堤のすぐ目の前だ。3月11日、洋一さんは浜で作業していた従業員をすぐさま帰し、自身も自宅へと飛んでいく。愛犬リンと健太郎さんが高台へ向かおうとしていたとき、波が防潮堤を越えてくるのが見えた。あっという間の出来事だったと洋一さんは振り返る。足が悪かった健太郎さんは、そこから逃げ切ることができなかった。 

 それから3日後、健太郎さんを捜そうと瓦礫をかき分けながら海へと出向いた洋一さんが目にしたのは、流されてしまったはずの母船『丸吉丸』だった。船体は奇跡的に大きな損傷を免れていた。それでもすぐに〝海へ〟と覚悟が決まったわけではない。しばらくは親戚宅などで避難生活を送りながら、心に穴が空いたような日々を過ごした。少し温かくなったある日、再び海に出向く。「瓦礫の間に見え隠れしてる漁具とかロープとかを見る度に、これ使えそうだな、あれは活かせそうだなって本能的に考えてるのに気づいたんです」と、洋一さんは当時を振り返る。親子が出した結論は「やるしかない」だった。そして、丸吉丸と共に再挑戦は始まった。