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受容と未来 | 和合亮一

身体と言葉のものさし

後藤「僕は、震災の前は “これからは言葉の時代だ” と思っていました。インターネットのおかげか、どこに行っても言葉だらけだし。僕らの音楽も、より言葉が問われる時代になると思っていた。でも、震災を経験して、 “あ、自分たちが忘れていたのは、身体だったんだ” と思ったんです。被災地に炊き出しに行ってみてはじめてわかること、現場で実際に感じて知ることがあったり。言葉や情報に対して身体が抜け落ちていたんだなと、身体で感じることが重要だったんだと気づきました」

和合「音楽は言葉を身体で響かせているんですよね。僕は演劇をずっとやっているんですが、演劇も同じものがある。谷川俊太郎さんが、『からだぐるみの言葉』と言っているんです。頭で捉える言葉は偽物だ、と。身体の内側に耳を澄ますような感覚というか、僕も朗読を20年ずっと続けてきて、あらためて、“ものさし”というのかな、身体と言葉のものさしが重なっていないと、ひょっとしたら、言葉自体が立ち上がってこない気がする。今、合唱曲を作っていて、作詞してみませんかと言われたとき、すぐできたんですね。ずっと、朗読をしてきたから。自分なりに、この言葉では歌えない、これは使えるな、というのがあるんですね。朗読したときに、エネルギーを使いすぎて、歩けなくなった、とか。そういう身体への負荷みたいなのを、言葉と一緒に感じている。それがあって初めて、言葉が出てくるんじゃないかと思っています。僕は今回の震災にも、そういったものが見いだせるんじゃないかと思った」

後藤「震災直後、僕はしばらく、人の音楽を聴けない、自分が作ろうとしている曲しか聴けなくなった。音楽プレイヤーすら再生できなくなったんです」

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和合「それはなんでですかね。音楽を作る人だから?」

後藤「音楽って自分の中にあるなにかしらのフィーリングと重なりあって響くものだと思うんですけれど、いま感じていることが、どんな音楽とも重ならなかったんだと思います。自分の中に凄く大きなフィーリングが立ち上がっちゃって、整理できない、何を聞いても、重なり合わない」

和合「自分がいつも聞いている音楽と、現実がかみあわない。齟齬(そご)が生じた、というか……」

後藤「何かが、ガラッとずれたんだろうと思います。まったく聴きたいと思わない身体になっちゃったというか。そして同時に、自分で音楽を作ったり、鳴らしたりしたことが、リハビリになった。2011年3月の終わりにみんなでチャリティライブをやったときに心底ほっとしたというか。泣いている仲間もいたし。はっきり言えば、僕らには失業するかもしれないという恐怖があったんです。誰からも必要とされない、ましてや、電気を使うから、不謹慎の塊みたいに思えて」

和合「なるほど、それはわかります。僕は、福島は隔離されるだろうと思っていたんです。3月中は物資もなくて、このまま我々は隔離されて、もう家族と会えなくなるんじゃないかという気持ちがあった」

後藤「それから6月になって、大船渡に炊き出しに行って、避難所で歌を歌いました。そのとき素直に、音楽が立ち上がるというか、 “ありがとう” という気持ちになった。僕は静岡の浜岡原発のそばに実家にあります。自分だったら、東海地震で原発が爆発して、津波で被災して不安に暮らすなか、もしもミュージシャンたちが “歌いますよ” なんて言って来たら、“なんだよ”って思うだろうなと想像していました。だから、びくびくしながら被災地へ行ったんです。陸前高田の高田一中の体育館で演奏したときは、マイクが1本しかなかった。マイクをギターと口の間に立てて、身体をかがめながら歌ったんですが、その時ふっきれたんです。この場所で何かを伝えるには、僕には身体と歌とギターしかないんだなって。どう思われるかなんてことより、大切なものがありました。自尊心みたいなものは全部ステージの袖で折りました、ボキボキに。そうしないと、自分の音楽が真っ直ぐ鳴らせない。冷や汗たらたら流しながら、なんとかやり方を見つけ出しました」

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和合「素晴らしいですね」

後藤「震災以降、ミュージシャンたちはそういう経験をいろんなところでして、変わったんじゃないかな。今まではある意味で、お客さんの側から歩み寄ってもらって、僕たちはこういうスタイルなんだから勉強して来てねっていう、ある種の不親切さがあったと思うんです。でも震災を目の前にして、そんなものはほとんど無効化したと思った。僕はロックバンドなんて在野だと思っているのですが、どこかでアカデミズムへの憧れみたいな、音楽的に解説してみたいというような、そういう願望を身を守る鎧のようにまとってしまう。だけどポピュラーミュージック、つまり、そのへんの人が鼻歌で歌っているもののほうが俄然、プリミティブに、エネルギッシュに立ち上がってきた。そういうショックがあって、いまでもそれは自分に影響しています」

「つまみあげることからはじめる」

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和合「文学の現場で、僕もまったく同じことを感じていまして。20年間、詩を書いてきて、一応ずっと若手として、重要な仕事を詩壇の中でやらせてもらっていて。でも、3.11以降、全てが崩壊してしまった。20年間詩を書いてきて、いくら賞をもらってきていたとしても、この現実に対しては全く通用しない。この目の前で起きているもの、がれきの光景を目の前にした時に、語る術が無い。自分自身が解体されたというか、自分自身ががれきになっちゃった。これまで積み上げて来た、プライドみたいなものが全て、無くなってしまった。僕は避難所には3日間いたのですが、余震におびえ、津波の報道に恐怖し、放射能のニュースに苛(さいな)まれるなか、避難所で配給があるのを朝昼夜と並んでもらうだけ、それを繰り返したら、なんかもう、積み上げてきたものが、一瞬にして、全て、無になってしまった。没個性というか、こんなに自分のやってきたことは無だった、自分のやってきたことはこんなにも、弱くてもろいものだと身体で感じたら、震えがとまらなかった。自分の表現活動というものが、崩壊してしまった。でも、僕は運が良かっただけかもしれないんですが、そこでひらめいたのがTwitterだったんです。それまでむしろTwitterをやってる人のことを、相当暇な人だなと思っていたんです。“ケーキおいしいなう”とか……」

後藤「(笑)」

和合「それまで僕は、詩というものは紙の上で縦書きじゃないといけないと思っていた。20年、現代詩を書いていたけど、こういう形の詩の刻み方というのは、これまでなかった。そういう人が、Twitterで詩をつぶやくのって野球やっている人が急にバーベル上げるという感じなんですよ。でも、津波を経験して、180度、変わってしまった。最初は誰も読まないと思っていたんです。自分のこれまでの読者には、届けようがない。最初、4人しかフォロワーがいなかったので。4人のうちのひとりは正体不明で、でもそこで、本当の意味でがれきの光景の中でひとつひとつつまみあげていかなければいけないと思った。 “積み上げていこう” と思うほどには前向きではない。でも “つまみあげることからはじめよう” と思っていたんです。最初は、幼稚だとか、これまで現代詩を書いて来た人間がどうしてこういうことを書くんだと先輩たちに言われたり。あと、国民感情に訴えている、とか、悲劇を装ってるとか、和合は本当は山形に避難しているのに嘘書いてる、とかいろいろ言われた。でも、被災地にいたから、そんなことを考える余裕は無かった。考えるより先に手が伸びて、そこで出て来たのは、 “ふるさと” とか “かなしみ” とか “なみだ” とか、文学をやってきた人間なら、およそ使わない言葉たちだったんですね。ああ、がれきを抱えてしまった、がれきの光景を、みんながかかえてしまった。そういうのが私も後藤さんにも、あったのではないかな、と思います」

後藤「僕は音楽をやっていますが、自分では、文学の端っこにもいると思っているんです。じゃあ文学に出来ることってなんだろうと思ったら、書き留めることだと思ったんです。全部、書き留めよう、と思って『砂の上』『ひかり』『夜を越えて』という曲で、震災への想いを歌詞にしました。僕は当事者じゃないけど “がれき” っていう言葉を使ってもいいのかなって、すごく緊張しました。当事者性というか、そこにいる人にしかできないことってあると思うんです。和合さんの『ふるさとをあきらめない』に出てくる飯館の方のインタビューを読んでも、僕が行ったってきっとこんな話はしてくれないんじゃないか、と思います。そういう引け目もありつつ、自分自身のこと、当事者じゃない僕が、何をしたらいいのかわからずに戸惑っている感じ…この愚かしさを、書き留めたいと言う気持ちもありました』

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和合亮一(わごう・りょういち)

和合亮一(わごう・りょういち)

1968年福島県福島市出身。詩人、国語教師。1998年第一詩集『AFTER』で第4回中原中也賞、2006年第4詩集『地球頭脳詩篇』第47回晩翠賞を受賞。日本経済新聞紙上などにて“若手詩人の旗頭的存在”と目される。詩集のみならず、エッセイも多く手掛け、ラジオパーソナリティとしても活動する。2012年には『ふるさとをあきらめない フクシマ、25人の証言』を発表。震災以降、地震・津波・原子力発電所事故の三重苦に見舞われた福島から、Twitterにて『詩の礫』と題した連作を発表し続けている。Twitterアカウントは(@wago2828)。