HOME < 被災地に寄せる自衛隊員の想い -Connecting the dots vol.4

被災地に寄せる自衛隊員の想い -Connecting the dots vol.4

THE FUTURE TIMES 4号では、「それぞれのふるさと」と題して、福島第一原子力発電所にほど近い福島県の地域を訪ねました。原発事故以降の様々な分断の中を生きる私たちが、耳を傾けるべき声がそこにはありました。 震災直後から福島県の沿岸部に入って、被災者支援活動を行った自衛隊。当時、どのような想いで活動していたのか、自衛官の大宮善直さん(仮名)にお話を伺いました。

取材/文:後藤正文

要望があれば、何でも引き受けていたと思います

後藤「最初に被災地に入られたのはいつですか?」

大宮善直さん(仮名)「僕の部隊は3月12日に先行班が出ましたね。そこから、部隊の一番上の指揮官は2ヶ月くらい帰ってこなかったです。他の、末端にいる隊員はローテーションを組まれて、それぞれの機関で往復とかしていましたけど…」

後藤「先行班の方は、大熊町(※1)に行かれたんですか?」

大宮「最初は、原発とかは確かまだそんなに状況がひどくなかったというか…。一度行ったんですよね、原発周辺までは。ただ、爆発して危険だってなって、そこでの捜索は困難だってことで、引き返したんですよ」

南相馬捜索写真

後藤「これは捜索の様子ですか?」

大宮「これは南相馬(※2)だと思います。南相馬での活動がかなり長期的に行われたので。僕が一番長く滞在したのは南相馬でした」

後藤「どのくらいの期間だったんですか?」

大宮「4月いっぱいは南相馬だった気がします」

後藤「南相馬の方々のインタビューを何度かしたことがあるんですけれど、震災後の公的機関のあり方にいろいろな想いがあるようで、自衛隊に関しても、もう少し早く来て欲しかったという気持ちを持っている様子でした。人員の割かれ方というのも、南相馬の方からみると見捨てられたような、少なく感じてしまうような…。他の地域のことについて、実際にどれくらい生の情報として把握して比較されているのかは分からないのですが…」

大宮「そうですか…。それについては、自治体によって温度差が凄くあって…。例えばですけど、ひとつの地域である程度活動が進むとするじゃないですか。そこの自治体の長は “私たちはOKだから” という感じで、被害がまだ残っているところのことを考えて、そういう場所に自衛隊の派遣を要請したりだとか、自治体同士が連携を取って助け合って、フォローし合うのが一番良いと思うんですけど…」

後藤「そうではなかったと…」

大宮「あと、温度差として、“子供たちのため” は分かるんだけど、野球の試合とかを自衛官がやったんですよ…。東日本大震災の復興の最中に…。今だったら分かるんですけど(インタビューは2012年の9月に行いました)、当時僕らが命を賭けて双葉町(※3)に行っているなか、子供たちの相手を迷彩服でやっているような映像をテレビで観たんです」

後藤「はい…」

大宮「家族も置いてきて、命懸けで活動している隊員もいるなか、野球の相手は自衛隊員でなくてもできるだろうと思って…。例えば、それこそ、そのときにプロ野球選手が来てくれたら、自衛隊員よりも嬉しいだろうと…」

後藤「そうですよね…」

大宮「僕は、助かっていない人たちを一刻も早く…、遺族の元に戻ってない人たちを見つけてあげたいってほうが、自衛官としたら絶対に…、力を注げるかなと…。ただ、様々な面で自衛隊は被災地の方に気を使っていて…。本当に被災者のことを考えて動いていて…。要望があれば、自衛隊は何でも引き受けていたと思います」

後藤「なるほど…」

大宮「被災者がこうして欲しいとかあれば…、それに対して、もう本当に最大限尽くすというか…」

後藤「要するに、どこの地域でどれだけ活動したのかは、自治体によって変わってしまうということなんですね…」

悲壮感の漂う生き物のように見えた4号機

後藤「自衛隊はローラー作戦というか、部隊で場所を交互にずらしながら、原発に向かって捜索活動をしてくれたという話を伺ったんですけど…」

大宮「恐らく、(自衛隊の到着が)遅かったというのは、原発が一番最後の到達点だったんですよね。どうしてかっていうと、危険だっていうことになってしまう…。水素爆発が起こって、やっぱり…。捜査するにも、僕ら、水素爆発した直後は、タイベックスーツ(※4)をひとりにつき一着という感じでは配られなかったんですよ。後になって、配布されるようになって…。安全な場所だったらフル稼働できるので、まず、そこに居る人たちを全力でもって探しながら、どんどん小高(南相馬市小高区)とか大熊町に向けてローラーして、距離を狭めていったっていう…」

後藤「北からも南からも」

大宮「そうですね。そういう実情なので、南相馬の方は早く来て欲しい、早く来て欲しいっていう気持ちは、多分あったと思いますね…」

5月-福島原発4号機

後藤「この4号機の写真を撮影されたのは何月くらいなんですか?」

大宮「5月ですね」

後藤「ここまで行ったときには、恐ろしいというような気持ちはありましたか?」

大宮「いや…、ここに来たとき…、今までの感情が、変わったというか…。とにかく、その当時は、原発は悪みたいな感じで、みんなそういう風潮にあったじゃないですか?」

後藤「そうですね…」

大宮「僕自身も、“原発なんて”とか“原発のせいで”とか思いながら、憎きモノとして、この地域に入っていって…。ここ(4号機)は活動区域から見えないんですよね。展望所っていう公園があるんですけど、そこに行ってはじめて見えるんですよ。高台から見ていると、変な話ですけど、僕と原発だけみたいな世界になったような感覚があって…。不謹慎ですけど…、この世の立ち入ってはいけない区域で、神々しいような感覚があったんです…」

後藤「はい」

大宮「真ん中がボカっと空いているじゃないですか?はじめて見たとき、これが口に見えたんですよ。湯気も見えたんですよね、当時。なんかナウシカの巨神兵のようにも見えて…。今までは安全だと言われていたから、人のために稼働していたっていう…。地震が起こって制御できなくなって爆発したら、自分たちが造ったものなのに、原発のせいでとか…。でもよく考えたら、要はコイツ(4号機を指して)を制御できなかった人間がいけないだけじゃないかっていう感じで、何か(様々な感情の)対象としているものを僕は間違っているなって…。なんていうか、エゴっていうか…。自分たちがいけなかったのに、原発を悪の象徴にしているっていうのは、人間の悪い…、凄く汚い部分をそのときは感じてしまって…」

後藤「なるほど…」

大宮「もの凄く涙が出て来て…。とにかくコイツ自身が生き物のように見えて、凄い悲壮感だったというか…」

photo02

■注釈

(※1)大熊町

福島県双葉郡大熊町。福島第一原子力発電所1号機から4号機の所在地。現在は全域が警戒区域に指定され、全町民1万1366人が避難中。原則立ち入りできない「帰宅困難区域」の住民は約1万560人で人口全体の約96%。大熊町役場は会津若松市といわき市に、それぞれ出張所と連絡事務所を開設している。

(※2)南相馬

福島県南相馬市。人口約6万5000人。市内の小高区と原町区の一部が福島第一原発から20km圏内に位置している。「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」に指定されている地域もあり、浪江町と隣接する区域に「帰宅困難区域」を抱えている。 震災時の人口は71,561人で、うち18,252人が市外避難中。5,437人が仮設住宅で生活している。

(※3)双葉町

福島県双葉郡双葉町。福島第一原発の5号機と6号機の所在地。全域が警戒区域に指定され、3,686人が県内、3,278人が県外へそれぞれ避難中。町役場は埼玉県の加須市に埼玉支所を開設。

(※4)タイベックスーツ

ポリエチレン繊維の不織布でできた簡易防護服。放射性物質が直接皮膚に付着するのを防ぐことができる。放射線を防ぐ効果はない。