日常を再生するための非日常
大場孔雀の真似をする儀礼をしたからといって、コブラは相変わらず強敵であることには変わらないですよね。でも気持ちの落ちどころが楽になる、そんな感じですか。
釈そうですね。根本的な問題は別に解決しないんですよ。
大場そこなんですよ。
釈それはさっき言った日常と非日常の話と同じなんです。いくら非日常がやってきたからって、日常がガラッと変わるわけじゃなくて、昨日と同じ日常が続く。でも非日常がないと、日常って再生しないんですよ。輝かない。
後藤はい。

釈たとえば、子供の時にお家に帰ると、玄関に知らない靴が三つぐらい並んでいる。「あ、お客さんだ」ってわかるじゃないですか。子供ってお客さんが来たら興奮するので、ドキドキしながらリビングに入ると、知らないおじさんがいて、「こんにちは」って言ったら「うわ、大きなったなあ」とか言われて楽しいわけです。でもしばらくしたら、いつもみたいにゴロンと横になれないし、テレビもつけられないから、だんだん窮屈になってくる。「もう早く帰ってくれへんかな」ってなって。それでじっと我慢して、おじさんたちが帰ったら、いつもみたいにゴロンと横になってテレビをつける。いつもの──昨日と同じ日常が、輝く。
後藤日常が輝く。そういうことなんですね。
釈日常を再生させるために非日常を行う、この繰り返しがすごく必要で。それをもたらすのが宗教者であり、芸能民であるということです。
句読点としての信仰と芸能

大場でもそう考えると、芸能も信仰も、根本問題を解決するかっていうと、できてたりできてなかったりする。今の時間軸だと、「これだけのことをやったらこういう効果があった」みたいな次元で必要か不必要かが判断されがちですよね。芸能とか信仰は、そういう評価基準だと残りづらい価値観になっている気がする。すごく言い方が悪いですけど、無意味なものにちゃんと価値を持たせるみたいな、そういうところがあるんですか。
釈基本的に人間の人生は思い通りにならないんです。思い通りにならない事態を引き受けたり向き合ったりするために、さまざまな創意工夫が必要だし、祈りも必要。祈りしかなす術がない事態は必ずあるわけですよね、人生の上で。その根本的な意味では、祈りの表現は人類が人類である限り残る──というか、それをするのが人類ということです。
大場飛行機に乗っていて、「もう落ちます」ってなった時に、人間がどうするかっていうのを考えたことがあるんです。もう助からない。皆さんだったら何を考えますか。「助けてください」って祈る。たとえ無神論者だとしても、「なんとか助かりますように」って。誰に向かって言ってるの、それ?──みたいな。あるいは「今までありがとう、お母さん」って感謝の気持ちが湧いたり。絶体絶命の時にそういう気持ちが芽生えるのが人間なんですよね。
釈ええ。過去のことを後悔するのも人間だけですし、未来のことを予測して不安になるのも人間だけです。基本的にほかの生物は目の前の現象しか認識できない。人間だけが過去の経験や未来の予測を物語として認識するという大きな特性を持っています。ある時、認知能力のオーバーフローを起こして、目に見えない世界に思いを馳せるアナロジーの能力を獲得した。その時に人間ならではの喜びが生まれ、人間ならではの苦しみが生まれた。この「目に見えない世界に思いを馳せる」能力とどう付き合うか。これは人類のテーマだと思うんです。
後藤なるほど。
釈仏陀やイエス・キリストは「過去を思い煩うな、未来を思い煩うな、今この瞬間を生きよう」と言うんです。確かにそれができたら人間の悩みの大半は解決する。でもそうはいかない。じゃあ、これから起こることへの不安に対して、みんなで良いことが起こるように歌ったり踊ったりしよう、と。能7なんかは完全に鎮魂芸・憑依芸能です。主人公はほとんどが死者ですし、亡霊のようなものなんです。旅のお坊さんが怪しげなものと出会って、その人が苦悩や怨念をぶちまけて、お坊さんが一生懸命聞くことで成仏する──過去の恨みや怨念を供養し消化していく。それが芸能の役割でもあり、宗教の役割でもある。過去を消化し、未来を予祝して、この苦しい人生を騙し騙し生きていく。人類が生み出した巨大な創造ですね。
大場聞いていて思ったんですけど、芸能とか信仰って、句読点のようなものじゃないかと。句読点に具体的な意味はないですよね。でも句読点があることで文章は読みやすくなる。同じように、芸能や信仰のある人生と、それがない人生は、もしかしたら中身は変わらないかもしれないけど、そっちがある人生の方が生きやすくなったり、豊かになったりする。そんな理解でいいですか。

釈そういうアプローチはありますね。我々は「意味の動物」なんです。意味に飢えると生きていくのが難しくなる。だから芸能も宗教も、ある種のストーリーを提示する。この世界の捉え方を提示してくれる。自分にぴったり合った物語と出会う──ここが大事なところで。芸能も宗教も、我々が漠然と思っている価値観を揺さぶってくるんですよね。新しい物語がしっくりきた時に、人生を大きく変えることがある。
藤枝の芸能
──大祭り、パトロン文化、アーティスト・イン・レジデンス
大場このエリアには藤枝大祭り8があって、まさにパトロン文化の一つでもあるなと。歌舞伎座で唄っている長唄の方を呼んできたり、東京藝大を卒業された囃子の方がいらしたり。14地区がそれぞれ屋台を出して、三味線方や囃子方がいて、それぞれの地域で一流の演奏者を呼んで3日間披露してもらう。すごいお金の使い方なんですよ。
後藤僕も去年、はじめて参加しました。
大場もともとは田中城というお城がこの辺にあって、その鬼門を守っている青山八幡宮のお祭りが起源なんです。城の鬼門を守っている神社の祭りが、時代を経て形を変えて今に至っている。
釈鬼門を祀るお祭りであり、芸能によって災いを防ぐという理屈になっているんでしょうね。神道の場合は、日本の神様を喜ばせるということですから、神楽なんかはまさに芸能であり神事です。
大場歴史的に見ると、この藤枝宿には大塚家9という文人の家があって、東海道を東西に行き来する人たちが寄っては宿泊して、食事をもらって、滞在中に書を描いたり絵を描いたりして、それを大塚家に置いていってまた旅に出る。江戸時代のアーティスト・イン・レジデンスですよね。

後藤MUSIC inn Fujiedaを連想しますね。
釈さっきの「芸能は真似ることからスタートする」という話と合わせると、異質なものの行き来が芸能には必須だし、ただ通り過ぎるんじゃなくて、滞在する──外の人と中の人のインターフェースのところに新たなものが生まれやすくなるんですよね。
昔の宿場町を、現代にどう「真似る」か
後藤じゃあ今、どうやったらいいんだろう。宿場町の起こりを考えると、人が集まって泊まるようになって、面白い人たちが集まってきて踊ったりして──もっと猥雑で、聖も邪もごった煮で存在していたような場所だったと想像するんですけど。大場さんとよく話すのは、どうやって昔の宿場町を現代風に模倣できるか、ということ。「真似」ですよね。
大場そうなんですよ。でも、それを意図的にインストールすると、とたんに意味を失うというか、目的的になりすぎて寒くなるみたいなことがないですか。
釈それはもう一つのテーマの方──地域にどれだけフックを生み出すかという話ですね。魅力的な場所を、行き交う人が引っかかるような場を、できるだけたくさん生み出す。小さなフックでもいいから、たくさんのフック。たとえば、かつての大阪には自分たちで立ち上げたサロンがたくさんあった。木村兼葭堂のサロンや懐徳堂や適塾10、ほかにもユニークな人やアーティストが集まる場所がいっぱいあって。幕末に地方から江戸に上がる人が、大阪が面白くてつい長逗留しちゃう。帰りもやっぱり寄っちゃう。日記に出てくるんですよ。それだけ多様なフックがあった。

宗教学者。浄土真宗本願寺派如来寺住職(大阪府池田市)。相愛大学学長、武蔵野大学総長。NPO法人リライフ代表。著書に『いきなりはじめる浄土真宗』『落語に花咲く仏教』など多数。比較宗教思想を専門とし、宗教・芸能・地域社会の関係について幅広く論じている。

僧侶。静岡県藤枝市を拠点に、宗派の枠にとらわれない活動を展開。まちづくり会社の立ち上げにも関わり、アップルビネガー音楽支援機構の活動にも協力している。

ミュージシャン。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカル・ギター。音楽活動のかたわら、文筆活動や地域振興にも取り組む。アップルビネガー音楽支援機構理事。



