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それでも、海へ

本誌創刊時より陸前高田を中心とした東北の人々に寄り添う視点でルポルタージュを届けてくれた安田菜津紀氏。彼女が取材を重ねるなかで出会ったある漁師の家族を追った写真絵本がこのたび刊行された。この5年間東北へと通い、出会った陸前高田の漁師・菅野さん。 一度は海へ出ることをやめた彼がふたたび漁業を再開させたきっかけ、そして高田の海に思うこととは。

文・撮影:安田菜津紀
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朝もやの中、港からほど近い漁場でのウニ獲りに向かう。


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夜明けと共に籠揚げの作業に取り掛かる菅野さん。


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水揚げのお手伝いをしたしゅっぺに、ご褒美はその場で割って食べるツブ貝。


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しゅっぺのお兄ちゃん、夏生(かい)君が、この日はじいちゃんのお手伝い。


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“漁師のボーナス”と呼ばれるほど高値がつく浜のアワビ。


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じいちゃんに内緒で、干していたシラスをつまみ食いするしゅっぺ。

 2011年3月、累々とどこまでも積み重なる瓦礫を前に、ただ茫然と立ち尽くした。岩手県の沿岸の町の中で最も南に位置する陸前高田市。湾に臨んだその地形が波の勢いを強め、一体そこにどんな営みが存在したのか、想像すらできないほど、街の中心地はごっそりと流されてしまっていた。「さぞかし人は、海を恨むだろう」。瞬時にそう思ったのを今でもはっきりと覚えている。
 やがて凍てつく冬の寒さが少しずつ和らぎ始めた頃、瓦礫の撤去や遺体の捜索が続くなかで、ふと港に集まる人影が目についた。漁具を拾い集め、骨組みだけになってしまった作業場の片づけを始めた、浜人たちの姿だった。当時はその光景が不思議だとさえ思った。あれだけ街を破壊し、人の命を奪った海に、なぜ人はもう一度戻っていくのだろうか。そんな疑問をたどるうちに、ひとりの漁師と出会うことになる。

 午前4時、既に船は2時間ほど沖合に走り続けていた。夏とはいえ、頬にあたる海風はひんやりしている。「このあたりまで来ると水の深さは200メートルぐらいだな」。船室から顔をのぞかせた船主がつぶやく。この第二志田丸を操船するのは、63歳になるベテラン漁師、 かんのしゅういち菅野 修一さんだ。ようやく船が錨を下した頃、既に空は赤く染まりはじめていた。黙々と海底から籠を引き上げては、カニ、ツブ貝、魚たちを手際よく取り出してまた次の作業にとりかかる。その速さはシャッターを切るタイミングを計るのが難しいほどだ。「小学生のときから海に出てっからな」と照れくさそうに笑う。長年こうして海に親しんできた菅野さんにとっても、いまだ心にのしかかる、あまりに大きな出来ごとだったという。

 3月11日午後2時46分、菅野さんは港で作業中に、立っていられないほどの揺れに襲われた。「これは大津波になる!」そう直観した菅野さんは、高台の家に残っていた家族の無事を確認すると、すぐに第二志田丸と共に沖合へと急いだ。漁師たちの間には“沖出し”という習慣が残っている。「船が流されたら生活ができない」と、波が高くなる前により穏やかな沖合へと抜けてしまおうというものだ。無線でやりとりしている仲間たちが、次々に波に飲まれていくのが分かった。けれども戻ることも、助けに行くことも、もはや出来ない。ひたすら沖へ沖へと船を走らせた。
その日家族は寒空の下、震えながら高台に停めた車の中で一晩を過ごしたという。水平線にわずかばかりの船の灯が見え隠れするのを見て、「あれがきっと、じいちゃんの船に違いない」と、ただただ無事を願ったという。
 陸側から流されてくる大量の瓦礫をかき分けながら、菅野さんは一日がかりでようやくねさき根岬の港へと帰りついた。変わり果ててしまった故郷の姿を目の当たりにして、愕然とした。「もう、海に出るのはやめよう」。とっさにそう思ってしまったという。
 それからしばらくは、物資運びや炊き出しなどで日々が過ぎていった。その間、せっかく守った船の姿を見ることさえ辛く感じられた。仲間たちの命を次々と奪っていった海の恐ろしさが、ありありと思い出されたからだ。食事も缶詰やレトルトばかりが続き、いつもの新鮮な魚たちは食卓から姿を消していた。そんなときにふと、一緒に暮らしていた孫、修生くんが菅野さんにこう言ったのだ。「ねえねえ、じいちゃん。じいちゃんの獲ってきた白いお魚、もう一回食べたい」。
 そのひと言に菅野さんは、はっとした。あの日恐い思いをしたはずの修生くんが、もう一度海の恵みに触れたがっている。自分もそうやって、海の恩恵を受けて育ってきたじゃないか、と。あの日、街を飲み込む波を沖から見ながら、真っ先に思い浮かべたのは孫たちの顔だった。恐怖が心から消えたわけではない。「だけど孫のためなら、頑張れるかもしれない…」。菅野さんの心はもう一度、海へと動き出していった。

 漁の復活は決して、平坦な道のりではなかった。地盤沈下した港は高潮ですぐに水浸しになり、海底に残った瓦礫に引っかかり、せっかく残った漁具が沈んでしまったこともある。大型台風や小さな津波、その後も自然は猛威を振るい続けた。
 それでも菅野さんに続き、ひとり、またひとりと漁師たちが浜へと戻ってきた。1年に数回しかないアワビ漁の日には、普段は別の仕事をしている人々でさえ船に乗り、精を出すまでになった。「どうだ見てみろ、これが漁師の誇りだぞ」。“漁師のボーナス”と呼ばれている冬場のアワビの計量所に並ぶ顔は、どれもほころんでいる。やがてその海の恵みが町に出回り、「今日は帰ったらご馳走だ!」と浜仕事をしない人々まで喜々として家路に就く。この街は海と共に呼吸している。だからこそ菅野さんたちはもう一度、ここに戻ってきたのだ。そう気づくまでに時間はかからなかった。
 あれだけ街を破壊して、仲間を奪った海かもしれない。けれども恵みを与え、人を繋げ続けてくれた海。だからこそ、その力と共に今、人々がもう一度立ち上がろうとしている。自然と人間が同じ空間を分かち合って暮らすこととは。それは地域を超え、震災という出来ごとを超え、私たちが問いづけなければならないことのひとつではないだろうか。

それでも、海へ 陸前高田に生きる (シリーズ・自然いのちひと)

それでも、海へ ー陸前高田に生きる-

安田菜津紀
(ポプラ社・本体:1,500円+税)

陸前高田市広田半島の港町・根岬に暮らす漁師と孫を追ったノンフィクション写真絵本。2011年3月11日に起きた津波の後、自然の脅威と恩恵の両面を受け入れ、震災から立ち上がろうとする人々の姿を生き生きと描きだす。フォトジャーナリスト安田菜津紀、初の単独著書として刊行。

(2016.8.20)
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暮らしかた冒険家

安田菜津紀(やすだ・なつき)

1987年神奈川県生まれ。studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年、「HIVと共に生まれる -ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。共著に『アジア×カメラ 「正解」のない旅へ』(第三書館)、『ファインダー越しの3.11』(原書房)。上智大学卒。