HOME < 今を生きること

今を生きること——家族や仲間の記憶と共に |

「この町は見棄てられた」という思いは今も上野さんの中にぬぐい難くある。それでも「僕は幸せだった」と上野さんはいう。「永吏可を抱きしめることができたので。見つかって、火葬してもらうまで10日近くあって、僕は顔を見に行くことができて、生きていれば嫌がられるチュウだってすることができた。でも妊娠していた嫁さんは避難先から戻れなかったから、永吏可の顔を見ることもできなかった。火葬にも立ち会ってない。骨も拾ってあげられなくて、本当に辛かっただろうなって。だから、倖太郎も見つけて、抱きしめてやりたい。抱きしめて、謝らないといけない。助けてあげられなかったことを。考えていたのはそれだけだったな、あの頃は」。

僕が上野さんに出会ったのはそんな頃だった。震災から3週間余り経過していた。僕はその前に岩手の陸前高田を回っていた。疲労困憊で戻った東京で、テレビで他の被災地の状況を知った。被災のあまりの大きさに愕然とした。その中で福島はより混沌としていた。不確かな情報が氾濫し、何を信じればいいのかわからなくなっていた。現場に行って自分の目で見なければ。今、何もしないのなら、自分はこれからも何もしないのではないか。僕を福島へ向かわせたのはそんな気持ちだったと思う。仙台から車で南下し、打ち上げられた無数の船を横目に、津波による黒い爪痕が生々しい浜辺にたどり着いた。そこが萱浜だった。

全域に避難指示が出された南相馬市小高区。2011年4月、人の姿が完全に消えた町で徘徊していた養豚場の豚と飼い犬。死骸も、瓦礫の中に放置されていた。

原発や放射能のことを気にするあまり、津波による惨状に思い及んでいなかったと痛感させられた。暗澹(あんたん)たる思いで浜辺を歩いていたとき、景色の中にふたりの男性を見つけた。何かを必死に探していた。瓦礫の写真を撮りに来たわけじゃない。生きた人間と向き合わなきゃ何も伝えられないだろう。己の心にムチ打ち、話しかけた。「何してるって?見りゃわかるだろ。人を捜してんだよ」と、今にも怒りだしそうな物言いで答えたのが上野さんだった。母親と娘を津波で亡くし、父親と息子を捜していると教えてくれたが、僕は声をかけるのに精一杯で写真はおろかメモも取れなかった。

その日の夕方、消防団員らが上野さんの自宅前に帰ってきた。僕は取材を切り出せずにいたが、上野さんのことが気になって付きまとっていたそのとき、思いがけず上野さんから「俺たちの集合写真撮ってよ」と言ってきた。緊張で指を震わせながらシャッターを切り始める。何かが写った、そんな手応えがあった。こうして撮られた消防団員のスクラムの写真は、結果的に、あのときあの場所で修羅場を共に生きた男たちの唯一の記録となった。そして、そこで撮った一枚の写真が縁となって、今も僕は、上野さんや彼の仲間たちとの繋がりが続いている。

震災から一年半が過ぎた9月中旬、半年ぶりに上野さんを訪ねた。『福興浜団』という団体を作り、遺体捜索や被災家屋の掃除、側溝の泥かきなどをボランティアの人々と行っているという。警戒区域改編後は20km圏内の小高(おだか)区でも活動している。

彼は萱浜を再生して、もう一度そこに暮らしたいと今も思っている。まだ見つかっていない家族のできるだけ近くにいてやりたいという想いがあるからだ。

「娘とお袋の骨は近くのお寺さんにある。ただの骨だってわかってるんだけど、こうやってね、抱きしめてると、うん、抱きしめてる、永吏可を。俺の中で。目をつむれば、永吏可を抱きしめている」

上野さんは僕には見えない永吏可ちゃんを胸にいだ懐きながら語ってくれた。「だから倖太郎も早く抱きしめてあげたいなあって、今でも。どういう状態であっても、抱きしめて、謝りたいと思う。ごめんねって言ってあげないと」。

せめて抱いてあげたい。父親の切なる想いは目に見えない命にさえ体温を与える。上野さんはそのぬくもりを感じるところで暮らしたい、そう願っているようだ。身を切るように痛くて、悲しくて、でも温かい想いを懐きながら、生きる。僕は今まで考えたことがなかったことをふと思った。愛ってそういうものなのかもしれない、と。

『福興浜団』は毎週末、ボランティアの方々と共に、
遺体の捜索活動や被害に遭った家の片付け、町の清掃などを続ける。

上野さんは故郷を再生しようと身を粉にする一方で、「生きたいとは思わない」とよく口にする。それでも歩みを止めないのはなぜなのか。「生きているから。ただそれだけ」と上野さんは言う。「矛盾しているようだけど、自分の中では当たり前な感じで。生きているから体がある。生きている人にしかできないことがある。生きている人がやらなければならないことがある」。

生きているから、海辺や浜辺を捜索する。生きているから、フジツボまみれの家を掃除する。生きているから、U字溝から泥をかき出す。生きているから、永遠に3歳の息子のために鯉のぼりを上げる。生きているから、同郷の138人の死を悼み138発の花火を打ち上げる。生きているから、ガラス混じりの荒野を耕し、菜の花の種をまく。今日あるものが明日、当たり前には存在しない。そのことを知る上野さんの営為は全部、今を生きることと繋がっている。

(2013.3.12)
前のページへ |  1  |  2 
photo02
山崎亮

渋谷敦志(しぶや・あつし)

1975年、大阪府生まれ。高校生のときベトナム戦争の写真を見てフォトジャーナリストを志す。London College of Printing(現ロンドン芸術大学)でフォトジャーナリズムを学ぶ。現在は東京を拠点に、世界の紛争や貧困、災害の現場で生きる人間の姿を伝えている。1999年MSFフォトジャーナリスト賞、2000年日本写真家協会展金賞、2002年コニカミノルタフォトプレミオ、2005年視点賞・第30回記念特別賞など受賞。アジアプレス所属。近著は、佐藤慧・安田菜津紀との共著『ファインダー越しの3.11』。