いわき市・40代男性(中学校教諭)

根本的な解決にはまだまだ時間がかかるだろうなと思います。ただ、何もしないでいるわけにはいかないので。

—中学校はまだ再開していないのですか?

「再開というか、元に戻そうという最中なんですよ」

—除染作業をやるということですか?

「そうです。現在、校庭の除染作業が進んでいまして。校内の土ですね、10cmくらいずっと全部削って、それが校庭のサイドに山盛りになっているんですけど。さらにそれを、校庭の中に、何メートルですかね、かなり広いスペースの穴を掘ってそこに埋めるんですよ」

—校庭に埋めることになったんですね

「その上にさらに新しい土を被せます。15cmです」

—中学校の学生さんは皆さん残っていらっしゃるんですか? 引っ越した方もいらっしゃいますか?

「半分ですね。国道六号線がそこを走っているのですが、その海側、街全体がかなりダメージを受けましたので。津波と火事がありました」

—震災当日は学校にいらっしゃったんですか?

「卒業式でした。12時には子供たちを帰して、地震があったのは14時46分ですから、職員室には大体の先生方が居て、そこでグラっときて。その後は学校が避難所に指定されていますので、避難所の対策ですよね。どんどん町の方が上がってこられましたから」

—避難所の対応などでしばらくは忙しかったんですね

「そうですね、2日間くらい徹夜ですね。職員は2日間くらい帰らないで、そのまま学校にいましたから」

—学校や先生の生活自体も含めて、今後のことはどう考えていますか?

「う〜ん…。根本的な解決にはまだまだ時間がかかるだろうなと思います。年単位の時間がかかるのかなっていう感じがします。ただ、何もしないでいるわけにはいかないので。子供たちを学校に戻すつもりなので」

—生徒の数は減りましたか?

「ここに残っているという意味では半分です。ただ、学校を戻すという動きを始めていますから。これから戻って来る家がどれくらいあるか…。家がそっくり残っているのに避難しているひとも結構いますので。どこも壊れていないけど、やっぱり原発が近いので怖いって言いますね」

—先生は原発が怖くないですか?

「う〜ん。まあ、年を取っていますからね。(放射能は)見えないので怖いですね。それこそ、原発が爆発した当時は、多分、交通整理か何かで外にずっと居ましたので。大体は外に居ることが多かったので、避難所では。色々浴びている可能性はあるかなと。ただ、それよりも心配なのはどちらかというと、自分の娘のほうが…」

—娘さんはおいくつなんですか?

「小学校5年生です。より小さい子供に影響があるっていう話なので」

—教え子さんたちへの心配はありますか?こちらに住んでいる中学生や、今から戻って来る子たちは

「心の中にどこまでの闇があるのか分からないんですよ。表面上はニコニコしていますけど、持っている負のエネルギーっていうんですかね、そっちのほうはもの凄いものがあるかなって思います。こちらで見えないですけど、抱えているものは一人ひとり一杯あると思います。例えば、学校が再開して1ヶ月くらい経った頃に、今までの避難生活について作文を書かせたりしましたが、壮絶なものがありました。普段の生活でも、普通に楽しく話しているのですが、震災の話はしない子がほとんどです」

—半分くらい避難された方っていうのは、散り散りいろんなところに避難されているんですか?

「そうです。ひとつは雇用促進住宅のような施設、それから仮設住宅、あとは親戚頼りですね」

—親戚を頼って他県に動いていく方もいらっしゃるんですか?

「大体はいわき市内ですね。ただ、原発の問題が起きたときには、全国とは言いませんが、関東の広い範囲で避難される方がいました」

—これで中学校の準備が整ったら、戻ってくるのかどうかということですよね

「そうですね。町としては、それを望んでいると思うんですけど。学校さえ戻ってくれればという思惑もあると思いますよ。町としての機能が戻ってきますから」

—あとは戻ってきたときのご両親の職業ですよね、仕事とか

「そうです。仕事をなくしてしまった方も一杯いらっしゃいますので。特に海関係は、漁ができない。船も出せないし、港も壊滅状態ですので。水産加工業もダメですね。物が入ってこない状態ですので。そういう意味では、地場産業みたいなものがゼロになってしまいました。地元の魚で今まで売っていましたので。久之浜がいわきの中では最も良い売り上げって言いますか、漁獲高が一番の港だったんです」

—それでも、久之浜の仮設の商店街の復活は町にとって、ひとつの明るいニュースですよね?

「この後どうするのかだと思うんですよね。半壊状態の建物は直せるんだったら住んでも良いと言われているんだそうです。でも、全壊の人がもう一度同じ場所に家を建てるっていうのはストップされています。そこでやはり、皆さんイライラするわけですよね。元に戻したいし、帰って良いんだったら、もう一度家を建てて住むって言うんですよ。あんなに酷い目にあったにも関わらず。それだけ町に対する想いというのは強いと思うんですけど。でも、決まるものが決まっていないので、それぞれの雇用促進住宅、仮設住宅で多分、皆さんイライラしてらっしゃると思うんです。動くに動けないので」

—その問題は色々な町に行っても、大体同じ話を伺います。建てられるんだったら、皆さん同じ場所に戻りたいとおっしゃいますね。あと、皆さん、飲食店が戻ってくると凄く嬉しいっていう。とにかく外食したいんだよねって

「そうですね。食べ物に関する想いが、避難しているときは一番強かったので。2週間で。私も地震前と今で(体重が)5kg違いますね」

—食事はどんな感じだったんですか?

「一日に子供の握り拳くらいのおにぎりが2個。それがしばらく、最初の1週間は続きました。その後、支援物資が来て、賞味期限が切れたパンとかが入ってきたんです。明日までのものとか。でも、小さなおにぎりよりも、大きなパンを貰ったほうが皆、喜んで食べてましたね」

—当時は競輪場が物資の集積場になっていましたよね。でも当初は宅配がダメだと言われて

「業者が動けなかったんですよ。モノは一杯あるんだけど、身動き取れないっていう。ガソリンがなくて、水道なんかも壊れてるんですよ、あっちこっちね。ところが、水道業者さんもほとんど避難してしまったので、残ったひとたちが工事を全て請け負うんですけど、そのガソリンも何リットルとか決められてしまうので」

—それで空洞化してしまって、インフラの復旧も進まないしっていう状況に一時的になったことですね。水道屋さんとか、皆さん戻ってきていますか?

「今は元の生活に戻っています。あとは原発だけですよね。ただ、家をなくした人たちはそれこそ、“どこに行けばいいの?”っていう」

もう原発のことなんて、全然、何も考えてなかったですよね。だって、一晩中、この町は燃えていましたから。

—海側の人たちは全く戻れていないという話を聞きます。でも、ちょっと怖いですよね。特に線引きが難しいというか

「あれだけの津波の被害を受けましたからね。戻すに戻せないという行政の立場も分かるんですけど。私は、そこの山の上にある中学校から見ていましたので」

—波は見えましたか?

「波は見えないんです。ただ、海自体が茶色く変わったので。その後は水しぶきで町が見えなくなったんです。水蒸気みたいになって、わぁっと霧がかかったようになって。皆で “津波だ!津波だ!” って言っていたので、これが津波かと思って。それで、降りて行ってみたら何もない。ペシャーンとしちゃって…」

—原発の煙とかは見えなかったんですか?

「全然。(笑)。原発のことまでは考えなかったです、当時は。もう、とにかく家がなくなっちゃった人とか、行方が分からなくなった人が一杯いるという話で、避難所はそれでごった返していましたので。安否確認に来る人も一杯いましたし」

—じゃあ、バスで逃げることなるまでは、あまり意識されてなかったってことですか?

「もう原発のことなんて、全然、何も考えてなかったですよね。だって、一晩中、この町は燃えていましたから。一晩中、プロパンの爆発する音があちこちで聴こえるんです。一晩中真っ赤だったんです、空が。それを皆で中学校の山からずっと見ていて。津波も酷かったんだけど、その次は火事ですから。ようやく次の日の朝に火が消えたって言うんですけど、昼までは爆発してました。原発のことなんか、言われてみれば “あぁ、そうか…” というくらいでしかなかったんですよ、そのときは」

—今、住んでいる方は皆さん、率直にどうなんですか。あまり気にしていない方も沢山いらっしゃいますよね

「こっちのほうに戻ってる方は、 “だって、ここで生きて行くしかないだろう” っていう考えで。 “ここでやれることやろうよ” って考え方ですよね」

—ここに住んで生きるってことを前提に何をやれるのかってことですよね

「ここに住んでらっしゃらない方は、帰ることに関してはかなりの抵抗があるようです。家はこちらにあるんだけど、放射能で避難しているって方、まだ一杯いますから。その方たちは、 “学校が戻る ”と言われてもかなり迷っています。半分くらいの家は迷っていると思いますね。 “絶対に戻りたくない” という意思表示を示す方はそんなに多くないんですけど、皆さん、正直言って迷っていると思います。いわきの中で一番、原発に近いですから」

—自分の子供のことだと思って考えたら、迷いますよね

「小さい子がいるところは特に、戻さないっていう方向のほうが強いですね。小学生とか幼稚園生なんかに弟や妹がいるなんていうところは、 “兄ちゃんだけ戻れば” みたいな話になっていますので。お兄ちゃんとお父さんだけがこっちで、お母さんと小さい子たちは別の家っていう。そういう家庭も出て来ると思いますね」

—どうしたら良いんですかね。誰に怒っていいのか、僕もよくわからなくなってきてしまって…。誰に怒ったら良いのかとかもそうだし、あるいは、ここから離れた場所で感じる無関心さに憤ったりします

「無関心なひとはいないと思いますけどね」

—そうですか?

「それはもう、無関心というよりも、我々が来たら “福島が来た” という感覚があると思いますけどね。ただ、無関心ではないと思いますけど」

—何かしら関心があるはずだということですか?

「チェルノブイリ以上とかって言われている話しなので。うちの学校にも日本のあっちこっちから色々なメッセージ届いていますので。絵はがきとか。鳥取県とか、そういうところの中学生が “頑張ってね!” と、絵はがきを送ってくれて。それで、こちらでいわきの絵はがきで返事を出したりしたんですけど」

—一方で、東京の優秀な大学生なんかが、これだけの事故があっても、 “いや原発必要でしょう” みたいなことを言ったりするのが驚きだったりするんですけど。経済だけを中心に据えた話をしたりだとか。皆、どういうことを考えているのかなっていうのが、正直な疑問なんですよね

「一番は、原発が必要な地域に原発を建てるべきなんだと思うんですけど東京にあれば良いんだと思います。皆、納得すると思いますけど。東北で使う電力って、本当にわずかしかないんですよね。原発がなくても間に合っちゃうんですよ。火力発電がふたつみっつあれば動いちゃうような地区なので」

—そのあたりも、問題がこじれているひとつの要因というか

「そうですね。例えば校庭の土を ——ここはもう除染が終わっているんですけど、汚れた土をどこに持って行くのかと言っても、持って行く場所がないので自分のところに埋めるしかないんですよ。でも、その土くらい東京に返したらいいんじゃないかって言う人も一杯いるので。その分の想いは向こうが持ってもいいんじゃないかって言う人もいるし」

—そういう感情は想像できます

「でも、中間処理場がこちらに建設されるという話がありますし」

—貯蔵施設ですよね、きっと。それについてはどう思いますか? 冗談じゃないって感じですか?

「冗談じゃないも何も、貯蔵施設が隣の広野町にできるかもしれないんですよ。そういう話が実際にあります。いわきの隣ですね。学校を戻そうと思っているのに、そんな話が出てきたら戻れなくなりますよ。だって、地域の直ぐ隣ですから。しかも、山間の地域にって言ったら、もう本当の隣。直ぐ側に小学校があるくらいですから」

—直ぐ側に小学校…

「楢葉町っていうのが広野町のさらに先なんですけど。Jビレッジがある町ですけど。そこの町長が建設会社をやっているそうで、そこ絡みの土地の売買があったみたいで。今年の5月に7億で売ったんだそうです。というのが、東京新聞に載ったみたいで。いや、そのタイミングがね。3月に地震があって、5月に7億で山が売れるっていうのはどんなもんかなっていう。この辺りの山、7億なんて絶対しませんもんね、だって」

—う〜ん…。そうですよね。楢葉町の皆さんは、そこに住まわれてないですよね

「楢葉はもう20km圏内ですから、町自体が移転しています」

—楢葉町はもともと原発職員の方とか一杯いらっしゃるような地域なんですか?

「そうですね、いわきもそうですけど、広野町から南相馬の原町あたりまで原発職員はずっといますので。いろんな意味で原発の恩恵っていうのは確かに今まで受けてきたので」

—地元の経済も原発で潤っている感じはあったんですか?

「潤ってるっていう実感はないですけどね。ただ、町に色々なものが建ってるなっていう。体育館が建ったなとか、道路が広いだとか」

—でも、実際に立地している自治体の隣町にはほとんどお金が落ちていないですよね

「だから、周りのほうがイライラするんだと思うんですけどね。福島市の人が怒るのは無理もない。まったく関係ない、それこそ30kmでもないし、保障も何にもないところなのに」