富岡町出身いわき市在住・40代男性(自営業)

高校生は “出来ればいわき市の高校に戻りたい”と、 “転校したくない”っていうことだったものですから

—今、どちらにお住まいですか?

「いわき市内です。もともとは富岡町で生まれ育って」

—震災があった時には富岡町にいらっしゃったんですか?

「町内の自分の職場にいました。長時間揺れたんで、こんな揺れは初めてだって思いました。3分くらい強い揺れがゴーっと続いて、一度止まったらまた揺れがまた来て。これはただごとではないなって感じがしましたね」

—その後は、どういうかたちで避難することになったんですか?

「一度、家に戻りました。家の中はぐちゃぐちゃになってました。私は中学生の子供を迎えに行って、その後、同じ町内の嫁さんの職場のほうに行ったんです。そこも大きなホールみたいなところなんで、避難所になっていまして。私と中学生の息子も、そこで一晩過ごしました。高校生の子供がふたり、いわき市内の高校に通っているんですね。電車も通ってないし道路も寸断されているので、その日は帰ってこれないってことで、そのまま学校に泊まったんです。それで、一晩町内で明かしまして、そしたら『第一原発』が危ないってことで、 “避難しろ”という指示が出て、嫁さんは職場のひとたちと川内村に避難しました。私は高校生の子供たちをなんとかしないといけないっていうことで、いわきまで車で行って、子供をふたり拾って、それから川内の避難所に行って嫁さんたちと合流しました」

—はい

「その後は3日ほど避難所にいたんですが、いわき市に親戚がいたもんですから、そちらに移りました。私の両親と弟と8人で行ったんです。その親戚も80過ぎの老夫婦なんで、ちょっと面倒も大変だなっていう感じにはしていたんですけども。当時、いわき市は水も出ないし、物資も来ないし、ガソリンもないし、そこにずっといるのは申し訳ないなというのもあって、嫁さんの実家が関西なんで、私ら家族5人はそっちのほうにひとまず行こうと。まあ、両親と弟はこっちに残して。それで、なんとか新幹線を乗り継いで、関西の嫁さんの実家に3月17日に移動して」

—3月17日。早いですね

「とりあえず地元にいても何もできないので。(笑) 本当に、食糧とか生活物資がいわき市内に入ってこない状態でしたので。いつまでもここにいて、親戚の老夫婦の叔母さんたちに迷惑かけるのも…」

—なるほど…

「高校生がふたり、ちょうど春休みに入る時期だったんですけど、学校がいつ始まるのか分からない状態だったんです。4月の半ばくらいには学校が始まるという情報が入ってきて。学校からもそういう連絡があって。中学生の子供は嫁さんの実家近くの学校に転校させるかたちで話が決まってたんですけど、高校生は “出来ればいわき市の高校に戻りたい”と、 “転校したくない”っていうことだったものですから、私も自営業だったんで、色々な保障問題とか従業員の手続きとかがあったんで、いわきに戻って3人でなんとかやっていくようにしようという話になりました」

—はい

「それで、4月の12日に3人でいわき市に戻ってきて。そのときは両親と弟が別のアパートを借りていましたので、とりあえずそこにお邪魔させてもらって、その間に私ら3人が住むアパートを探そうかっていうことで。まあ、当時物件がなかなか見つからなくて、1ヶ月半くらいかかったんですけども、6月中旬くらいに引っ越しました。現在、高校生ふたりと私で、両親とは別のアパートに住んでいるというかたちですね」

—中学生のお子さんは関西のどちらに?

「奈良県です。奈良が嫁の実家だったんですけども。地元の中学校に転校させて。向こうに住んでいます」

—あちらで進学するんですか?

「そうですね。もう進学は向こうでするって言っていましたので。こっちに戻っても混乱するだけで。安心して勉強を求めるってことであれば、向こうに残って、向こうの高校に入って、ゆっくり、本当に落ち着ける環境で勉強してもらったほうが良いかなと」

でも、現実ね、『死の街だ』って言って辞めた大臣もいますけどね、その通りなんですよ。あれは間違ってない

—自営業のお仕事は何をされていたんですか?

「父が始めた会社なんですけど、自動車整備の会社をやっていまして。でも、震災以来は仕事がストップというかたちで。なかなか、また新たに——色々な国の支援とか融資制度はあるんですけど、今までの借金もありますし、また立ち上げてやるのはキツいかなと思って、年内中は休業っていうかたちにして」

—保障の書類などは、実際どうなんですか? 読み辛いですか、やはり

「読み辛いですね。凄く分かれているんですね、色々。避難関係のこととか、仕事関係のこととか、精神的な関係のこととか。で、まあ、資料は領収書揃えろとか、証明書揃えろとかいうのがあって、何でここまで細かくやる必要があるのかっていうのもあるんですけどね。お年寄りの方は絶対にひとりでは書けないと思いますよ。本当に東電の人が一人ひとりに付いて丁寧に説明しないと、私でも書けないかもしれないですね。それとは別に、今度は自営業の書類もやらないといけないんですよ」

—従業員の方は何人いらしゃったんですか?

「従業員は8人です」

—その皆さんもいろいろな場所に?

「県内の仮設にいたり、借り上げ住宅にいたりして。一応、一時解雇というかたちで、休業補償というか、特別措置ということで失業保険を貰いながらやってもらっているんですけど」

—なかなか厳しいですよね

「う〜ん、そうですね…。デカい会社ならともかく、私の会社くらいの規模だと中途半端で…」

—富岡町といったら、本当に原発に近いですよね?

「『第一原発』からは、町の場所にもよるんですけど、うちの自宅だと12、13kmですね。『第二原発』からだと7、8kmって感じですね」

—一時帰宅は何回かされたんですか?

「一度、(自宅には)行きました。あとは会社関係で3回ほど、会社の書類を取ったり荷物を持って来たりというのはありますけども」

—戻りたいという気持ちはどうですか?

「う〜ん。それは戻りたい。(笑) 戻れるならば戻りたいです」

—やっぱりそうですよね

「でも、現実ね、『死の街だ』って言って辞めた大臣もいますけどね、その通りなんですよ。あれは間違ってないんだ、確かにね」

—あの『死の街』って発言はちょっと頭にきたりしました?

「私は頭にきませんでした。その通りだと思う。自分もそう思ってましたから、何回か行ってて。まあ、言わば “ゴーストタウン” ですか。(笑) “ゴーストタウン”って言えばそんなにないんですけど、『死の街』って日本語で言うと反発食らってしまうような。でも、行くと、そんな感じがします」

—人はいないってことですもんね

「人はいない。草ボーボー。ときどき犬とか猫がチョロチョロって。まあ、牛もたまに見かけますけど」

—避難解除しようっていう動きがあるじゃないですか?

「はい。緊急時避難準備区域ですか。広野町とか川内村とか…」

—富岡町はそれより中になるんですか?

「中になるんです。20km圏内にスポっと入ってますので。20km圏内の解除は、ちょっと難しいと思いますね。そのメドが分からないんで、やっぱり生活していても、本当に見切りをつけてどこかに移り住むのか、戻れるまで待とうかとか、そういうのがなかなか決められないというか、決断できないというのがあるんですね。いつ戻れるのか分からないし」

—今も、どうしようか考えている状況ですか?

「そうですね。戻れるんなら戻りたい。ダメならダメでもう、自分の会社整理して、子供らと一緒に嫁の実家に移ろうかなってのもチラっと考えますねまあ、この年で仕事探すのが大変なんですけども。(笑) 子供も金がかかる時期なんで。一人目はなんとか今までの蓄えが多少はあるので、なんとかいけるかなと思うんですけど。(笑)」

いつまでもこの状態で、借上げ住宅にずっと何年も住むようになるのかって考えちゃうと…

—富岡町の町としての機能はどうなっているんですか?

「今は郡山に役場の出張所みたいなかたちがありまして。ビックパレットふくしま、そこにあります。最近まで避難所になっていましたけど、先月末かな、もう閉鎖になりました。役場の機能はそこにありますね。そこが狭いってことで、郡山市内に別な土地を借りて建てるみたいですけどね」

—でも本当に、戻れるのか戻れないのかっていう判断は難しいですよね

「宙ぶらりんな感じなんですよね。(笑) じゃあ、除染すれば完璧に住めるようになって戻れるのかとなったら、恐らく、小さい子供さんを連れている家庭は戻らないと思うんですよね。近くでまだ原発の作業が続いているわけですし。年寄りとか年配の方ばっかり戻ったって、ねえ。若い人たちが戻ったって仕事があるわけじゃないし、自営業のひとたちが戻ったって前の通り仕事ができるわけじゃないし」

—付き合いがあった方々とか、従業員の皆さんもやっぱり、戻れるなら戻りたいっていう想いですかね

「戻りたいって言ってますね。戻れるなら…。恐らく、政府としても来年になっても結論は出ないと思うんですよね。まあ、今、緊急時避難準備区域っていうところは解除しますってことになっていますけども。20km以内の警戒区域ですか、ズルズルズルズルいっちゃうような気がします。放射線量も高い、汚染レベルも高いところがやはりデータでありますし」

—なかなか状況が改善していかないことをどう思いますか?

「政府の発表とかも、県の発表とかも、ちょっと後手後手ですよね。データがでてくるのが遅いとか、発表が遅いとか。 “もうここはダメです、10年は我慢して下さい” とか、そういうことをはっきり言ってもらうと、次の生活を ”こうしよう、ああしよう” というのが出てくるんですけど。そうはっきり決めてもらってほうが動きやすいというか。いつまでもこの状態で、借上げ住宅にずっと何年も住むようになるのかって考えちゃうと…。ただ補償金だけもらってダラダラしてるのも、ちょっと…」

—東京電力に対して思うことはありますか? 何とも言い難いですか?

「う〜ん、そうですね、何とも…。今さら文句を言ってもしょうがないですからね。その、処理をスピーディにってのもありますけども。う〜ん…。記者会見とかは上の人たちが——下の人たちは一生懸命働いているんですけど、上の人たちの話を聞くと、いまだに他人事みたいな感じで喋っているっていうのがありますし。国任せ、県任せなところもありますし。社員はボーナス減らさないとか、社長の退職金の話がどうとか、ウソか本当か、そういのもありますよね。それを補償金にまわせよって思っちゃいますよね」

—富岡町に住んでるときから、原発が近いってことは意識されてたんですか?

「もう小さいときからありましたんで、それが当たり前という感じで生活していました。今の20歳くらいの子は生まれたときから、もっと前かな、原発はあったんで。周りも原発で働いている、関連会社に勤めているってのも多いですし。まあ、原発っていえば一種の大企業があるって感じて、働いてたと思うんです。放射能とか放射線がどうだって、普段そういう話をして生活していたわけではないし。普通の一般企業として働いているっていう感じですよね」

—でも、何かが起きてみると、こういうことになってしまうのかって、重いですよね

「う〜ん…。そうですね…。小学校、中学校とか、やっぱり子供ですよね。お父さんだけいわきに残って、お母さんと子供はどこかに避難しているっていう家庭もありますからね。母と父が離ればなれですか。仕事の関係で、原発のほうで働いているお父さんはこっちに残って、お母さんと子供は違うところにいるとか。うちもそうなですけども」

—難しいですね。これからのことを考えたいんですけど、これだって言えることがないですよね

「いつになったら戻れるっていうのは分からないので、生活設計を立てようがないっていうか、う〜ん…。そういうのありますよね。年明けに、政府がステップ2ですか、それが終わる頃に判断しますよって話がありますけど、判断できるのかどうかですよね…」

—ステップ2で原発の冷温停止ができたとして、 “ハイ!戻れます”ってなったときにはどうしますか?

「その前に除染ですよね。 “あの広大な土地をどうやって除染すんの?”という感じなんですけど。家の周りとか道路とかだったらあれですけども、森とか林とか、山とかあるじゃないですか。そんなところ除染しきれるわけないですよね。年数経つのを待つしかない」