いわき市在住・夫 40代(自営業)/水戸市避難中・妻 30代(自営業)

取り越し苦労でも笑い話でもいいから、 “あの時は大げさだったんじゃないの?” ってくらいの判断をしていたほうが今は良いと思っています。

—おふたりはいわき市に住まわれているんですか?

F (いわき市在住・夫) 「私が残っていて、家内と娘は茨城のほうに避難しています」

E (水戸市避難中・妻) 「会社が水戸にありますので、とりあえず仕事を続けたいというのもあったので、私は娘を連れて、ふたりで水戸に住んでいます。ただ、私たちの判断で “ちょっと離れていたほうが良かな” ってことでの自主避難ですけど」

—お子さんはおいくつですか?

E 「小学校一年生生です。娘が生まれるときに一軒家を建てたんですよ。もちろん住宅ローンが残っています。今そこには主人がひとりで住んで、自己負担で水戸にマンションを借りて生活しているので、ちょっと経済的にも…」

—負担ですよね

F 「実際、娘の幼稚園のときのクラスメイトも、半分近くは県外避難している状態なんです。旦那さんも仕事を辞めて家族で移住しちゃったって人もいます」

E 「女の子のお子さんを持ってる人は、北海道から沖縄まで散りましたね」

—将来子供を産むと言うことを考えると心配ですよね

E 「そうなんです!考えるのは子供のことだけで…。健康被害っていうものと、あとは差別ですよね」

—差別はあります? 今後の心配として?

F 「例えば、26才になるまでいわき市で娘が育ったときに、 “20年間福島で育ったうちの娘とお宅の息子さん結婚させられますか?” って聞いたら、多分ほとんどの親御さんは反対すると思うんですよ」

—う〜ん…。ちょっと想像がつかないです。僕は気にならないので

E 「20年後にどういう症状や症例が出ているのかっていうことも大きいと思うんですけど、私は女親として、本人も子供を産むときに不安だろうし、結婚にいたらなくても恋愛という時点で彼氏の親御さんに交際をも反対されるようでは、——自分が差別を受ける分には良いんですけど、娘が受けるようになっては不憫だなと思います」

F 「差別に関しては、あくまで推測になってしまうんですけど…。やっぱり子供が妊娠したときに、放射能がどのくらいの影響を与えるのか分からない状態で妊娠期間を過ごすわけじゃないですか。それがちょっと怖いですかね。となると、取り越し苦労でも笑い話でもいいから、 “あの時は大げさだったんじゃないの?” ってくらいの判断をしていたほうが今は良いと思っています。仕事や家庭の事情で避難できない人もいるので、微妙なとこではあるんですけど…」

E 「出たくても、ずっと福島県にいざるを得ない人も沢山いるので。やっぱり、住宅ローンを抱えている方が多いので、二重生活は難しいっていう…」

—避難を決めたのはいつだったんですか?

E 「3月末の時点で、いわき市の放射能被害がどういう具合なのかはっきりしていなかったので、地震の次の日、——12日に会津若松に避難して、そこから3月末までずっと会津若松にいて、いわきの自宅に戻ることなく水戸に住んでいるという状況です」

F 「その時点で避難した人と避難していない人の微妙な溝っていうか、 “あの人たちは逃げたんだ” っていう感じがあって」

—今でもそういう溝はありますか?

F 「 “あの時避難したんでしょう?” みたいな感じや、 “残ってたほうが偉い” みたいな感覚もあると思います。原発事故がなければ起こりえないことなんですけど…」

—そんな軋轢は生まれないはずだってことですよね

E 「人間関係がおかしくなったのは、微妙な感じです。子供を連れて引っ越しまでしてっていうのを、いわき市にすっと住んでいる兄から反感を受けたりして。 “うちは放射能なんか気にしないし、国で大丈夫って言ってるのにバカじゃないの?” と言われたり。 “そこまでする必要あるのか” と残っている人たちから言われることが多いですね。避難した人たちはお互い、いつ戻るのか、戻れるのか、長い期間で考えたときに大丈夫なのかって、常に話はしていますけどね」

—状況が整えばいわきに戻りたいって気持ちはありますか?

E 「もちろん、戻りたいですね。親とか兄弟、仲良い友達、幼なじみもいわきに住んでいますので」

F 「今まで築き上げて来た人間関係とか、全部断ち切ってというのは難しいと改めて思いましたね。人間関係は一度に積み重なったものではなくて、少しずつ積み重ねてきたものなので。それを全部ゼロにして他の土地にっていうのは難しい…」

E 「帰って来るべきか、ずっと水戸で生活するべきか、それに関しては本当に堂々巡りです。本当に毎日考えますけど、答えが見えないですね。この状況だと、娘は父親と一緒に暮らしたことがない状況で大人になってしまいますので」

—会えるのは週末だけですか?

F 「週末と、週一回とか、二週間に一回くらいになってしまうので」

E 「ただ、私の場合は茨城県なので直ぐに行ける距離なんですけど、大阪や静岡に住んでいる友達もいて、子供達はみんなパパに会うのが震災後二回目だって言っていて。一回目はゴールデンウイーク、二回目は夏休みっていう。今後もそれを続けていいものかっていうのは、皆さんやっぱり悩んでいます」

F 「震災で出来なかった卒園式が8月にあったんですよ。久しぶりにバラバラに避難していた子供たちが集まって、 “本当は同じ小学校に行く予定だったのにね” って話したんですけど。皆、離ればなれになったことには不条理を感じてますよね」

E 「私みたいに子供がいるという環境だと、凄く怒りとか理不尽さは多分、誰よりも強く持ってるんですけど」

親の世代は大丈夫だよって、子供の世代は大変だよって親子喧嘩。それで家族間のゴタゴタが一気に溢れ出した

—遠くから心ない言葉を吐いている人たちも多いですよね

E 「 “福島県の人が声をあげないと” って言われるんですけど、皆、日々を生きていくのに精一杯なんです。例えば、放射能の影響で子供は外に出られないだとか、引っ越しして、学校に行かせて、新たな家財道具も揃えなければいけないとか、日常一杯一杯の半年間ではありましたよね」

—落ち着くのに精一杯っていうことですよね

F 「結構、いわきは微妙なんですよね。市自体が “安全です” と対外的に言ってしまっているので。線量だけ見れば安全なんですけど、食べ物に関してはちょっと怖いですよね」

—子供の食べ物とか、給食とか、どうしているのか気になりますよね

E 「もう本当にそこは、かなり気になりますね」

F 「県知事が東京に行って、 “福島の物も美味しいです!” とか言って風評被害に負けないために食べているのを観ると、変な意味じゃなくて逆に食べてもらわないほうが、——例えば、福島のものは危ないかもしれないので、今年一年は食べないで下さいと、一回休みにしても良いんじゃないかとみんな言ってるんですよね」

—地面を除染して、数値を測り直して

F 「土壌の改良をきちんとやって。私も農家に知り合いがいるんですけど、福島の農家はこんな状態でも米を作って “殺人行為だ” とかってネットで叩かれてるんですよ」

—あれは酷い言い方ですよね

F 「ただ、聞いてみると、出来たものに対してしか保障してくれないそうなんですよ。米が出来て、それが線量高かったら国で保障しますと。だから、今年は危ないんで作りませんって人は保障がないかもしれないんですよ」

—それでは作るって選択になりますよね

F 「そういう理由で作っているのに “なんでこんな言われ方するんだ” って、皆さん憤っていますよね。殺人者呼ばわりされて…。だから “虚しい” って言ってましたよ。結局、作っても口に入れられるのか分からない米を半年かけて育てるわけじゃないですか。だから、凄く虚しいことをやっているような気がするって」

—食べてもらって、美味しいと言ってもらうことがひとつの喜びでもある仕事ですもんね

F 「意識が高い人ほど、安全なものを食べさせたいと思って今までやってきた人ほど、可哀相なんですよ。やっぱり、農薬云々って以上に、一番危険なものが入ってきてしまうわけじゃないですか」

—もともと有機農法でやっていたような方たちですね

F 「そういう人らは、本当になんのためにこんなことやっているのか意味が分からないって。誤解が誤解を生んでこうなっているんです。ただ、保障のやり方に問題があるとは思いますね。出来上がってしまえば、それが汚染されたものであっても流通してしまう可能性がありますから」

—どこかが安く買い叩いて、シールを張り替えて

F 「それはもう、モラルの問題というところになってしまうので…。農作物とか牛とか、ギリギリのところで中途半端に出荷して数値が高かったりすると、後で大騒ぎになってしまうじゃないですか。その繰り返しをしているので、ネガティブキャンペーンじゃないですけど、福島の食べ物は危険だって印象を3、4年引きずってしまったほうが怖いかなって思います」

—そうですよね。福島と一言で言っても、数値が出ていない場所もありますから、全てを “福島” と一般化されると困りますよね

F 「会津とか奥会津のほうは150kmか200kmくらい、——東京と同じくらい原発から離れてますからね。そのあたりも県外の人は地理関係が分からないので、仕方がないかなとは思うんですよ。 “福島” というイメージになってしまうのは」

—難しいですね。時間がかかることが分かってるだけに、歯がゆいですよね

F 「だからもう、地元の人は下手すると40年、50年の話かもしれないってことを言っています。逆に、ここで生きていくと決めたからには、その問題とは嫌でも共存していかなければならないですから。だから、まずは除染作業をして欲しいというのが希望ですよね。当然、再稼働っていうのはゼロってところで動いていますけどね。再稼働になったら福島県民がクーデター起こすんじゃないかって、皆言ってますけど(笑)」

—さすがに、もう原発は要らないって感じですか?

F 「いやもう、皆 “100%ないでしょう” って言うんですよ。ただ、その声は届いてないですよね。福島の人たちは原発どっぷりで、本当は反対って言いたいんだけど、いろいろな事情があって言えないって話を聞きますけど、そんなことはなくて、ほぼ全員が嫌だって言ってるくらいですから。東電社員の人も嫌だって言ってますからね」

—やっぱり、都会の電気作ってたのにという気持ちはありますか?

F 「そうですね。だから、よく東京の人のインタビューを観ると “福島の人のために節電します”って言うんですけど、福島の電気は東北電力なので、あそこじゃないんです。そういうことも分からない人がいることに驚きましたね」

—原発の立地については、以前から意識されていましたか?

F 「常に私は嫌でしたね。20代はずっと東京にいて、20代後半くらいでいわきに戻ってきたんですけど、その頃から原子力発電所てものに挟まれているいわきという土地が、いつも凄く気になっていたんです」

E 「11才年が離れているんですけど、私の年代になると、そんなに原発とか、原子力とか放射能というものにあまり知識がないんです」

F 「私の年代は一番多感なときにチェルノブイリを体験しているので。だから迅速に、 “逃げるしかない” っていうふうに思ったっていうのがあるでしょうし。」

—避難した日が12日というのは、早いですよね

E 「1号機の一番最初の爆発は車の中のテレビで観ました。そのときはもう、 “急いで!急いで!” みたいな」

F 「私は非常に強い虚無感に襲われて、もう故郷には帰れないなって思ったんですよ。いわきですらダメだと思いました。避難のときは悲しいというか、何ともいえない気分の中で運転していきましたね。」

—まわりの皆さんはどうですか?

F 「もう結局、親の世代は大丈夫だよって、子供の世代は大変だよって親子喧嘩。夫婦間でも母親は逃げなくちゃダメだって、父親は仕事があるから残るって、それで家族間のゴタゴタが一気に溢れ出したっていうか」

E 「私も実家に母親がずっといたんですよ。次々爆発しているし、 “お願いだから会津に来てよ” って電話をしたら、85才の爺ちゃんが “戦争と比べたらなんてことがない” って」

F 「 “俺は爆弾がここを飛んでるところを生き残ってきたんだ“ って話になっちゃって(笑)」

E 「でも、そのときは、いわき市は避難しなかったら死ぬんじゃないかっていうような状況だと思っていたので。 “爺ちゃん置いてお母さんだけ来なよ” って、 ”老い先何年生きるか分からない人のためになんでお母さんが命を削らないといけないの?“ って、そういう言ってはいけないことも言っちゃいますよね。うちだけじゃなくて、他のうちとかもそうだったんですけどね」

—重たいですね

F 「重たいですね。でも逆に、それで家族の意味とか凄く考えましたね。何を一番大切にしなければならないとか」